平成13年1月10日(水)日本経済新聞より

誕生秘話で地鶏に味付け
名古屋コーチンを生んだ元尾張藩士兄弟の足跡追って

入谷哲夫

名古屋名物の食べ物、と聞かれてあなたはいくつ答えられるだろうか。きしめん、みそカツ、天むすはあたり前。だが、「名古屋コーチン」を忘れてはいけない。最近ブームの地鶏(じどり)の中でも文句なしの最高級種で、煮てよし、焼いてよし。刺し身がまたイケる。ムチッとした歯ごたえ、口に広がるうまみは、一度食べたら病みつきになる。

逸話求めて小孫訪問

この名古屋コーチンを生んだのが、元尾張藩主・海部壮平、正秀の「海部兄弟」だということは、地元では有名だ。だが人となりや名古屋コーチン誕生の経緯は、だれも知らなかった。私は国産初の実用鶏種(けいしゅ)として名古屋コーチンを開発したかれらの開発秘話をあきらかにした。
小牧市の中学校長を辞して市の教育施設につとめていた私のもとに1998年、手紙が届いた。「あなたの校区に海部兄弟の養鶏屋敷があった。兄弟を顕彰してやってほしい。」。ある郷土史研究家からだった。
私は生粋の尾張っ子だ。農家の子として名古屋コーチンに囲まれて育ち、親父からの結婚祝いは二羽のメンドリだった。考えれば随分とニワトリに縁が深い。それに郷土の偉人の功績を将来に受け継ぐのは教育者の勤めだ。そう思い、調査に踏み切ったのだ。
海部兄弟の大まかな経歴はこうだ。海部壮平1847年に生まれ。弟正秀は1852年生まれ。家は代々、尾張藩の砲術指南役だった。兄弟ともに維新後まもなく養鶏をはじめ、名古屋コーチンの開発に成功。1905年(明治38年)に日本家禽(かきん)協会が名古屋コーチンを実用鶏種1号に認定する。ここまだは簡単に調べがついた。問題はなぜ彼らが養鶏に手を染め、名古屋コーチン開発に至ったかだ。
途方にくれた私に、壮平兄弟の姉の子孫にあたる入谷美波留さんという方がご健在という情報が入る。さっそく彼女を訪ねてみた。美波留さんは私と同姓のよしみで、貴重な情報を惜し気もなく教えて下さった。さらに彼女は正秀のひ孫の海部園子さん、壮平の孫の海部昌久さんを紹介してくれた。記念すべき三人の面会は99年5月、小牧市のホテルで実現。もちろん肴(さかな)はコーチン料理。昔話に弾む三末裔(まつえい)の会話から、名古屋コーチンの秘話が姿を現していった。
代々尾張藩の砲術指南役をつとめた名門一族が、なぜ養鶏に手を染めたのか。背景には藩の経済情勢があった。藩士の生活は困窮を極め、藩は内職を奨励していた。海部家は一定の禄(ろく)を得ていたのでその必要はなかったが、周囲には堂々と内職にいそしむ武士が多かった。
当時、内職として流行したのが養鶏だ。生き物だからリスクも大きいが、卵も肉も美味で成功すれば文字どうりおいしい商売だった。幼き壮平は弟の正秀と近所の武士が営む養鶏場をのぞいては、卵をもらって食べた。養鶏のうまみを肌で知っていたといえる。

中国産とかけあわせ

もう一つの理由が壮平の事業失敗だ。壮平は維新後の1873年、春日井郡池の内村でよろず屋を始める。これがまさに「士族の商法」。当時の地図をみても、よくもまあ、という最悪の立地だから、当然不振。
そんな時、正秀が兄に「一羽のえさ代は一日二厘か三厘、卵は一個一銭で売れますぞ」と養鶏を勧めた。壮平はこの言葉に、ニワトリに親しんだ幼少期を思い出した。だが当時ニワトリは神の使いとされていた。悩んだすえ、壮平は弟の勧めにのることにする。そうなれば後は一直線。「養鶏も武士道なり。倒れて後己(や)む、だ」と海部家の家訓を支えに養鶏に没頭する。
もちろん苦労は絶えなかった。伝染病でニワトリが次々死ぬ。さらに壮平は二女を、正秀は長女を相次ぎ失う。口さがない人は「それ見たことか。神のたたりだ」とうわさする。くじけそうな彼らを支えたのは、やはり「倒れて後己む」の家訓だった。
伝染病でニワトリが全滅した時にのこと。集まった村の人の前で兄弟は「これからは村のために養鶏をいたしまする」と、畳に手をついて資金援助を請うた。士族が平民に頭をさげるなど、よほどの覚悟がないとできない時代だった。その心意気に村人もうたれ、百三十円の大金が一気に集まったという。これはあっぱれ「士族の商法」である。
1882年、正秀が中国産のバフコーチンというニワトリを持ってくる。体は大きく、姿も立派。壮平がこのバフコーチンと地鶏を掛けあわせると、肉質も卵もよく、丈夫なニワトリができた。バフコーチンより毛が薄かったので、地元の人は「ウスゲ」と呼んで珍重した。名古屋コーチンの誕生だ。
海部のウスゲは人気を呼んだが、品質にばらつきが多かった。兄弟は地道な観察から、3対1の比率で良質な子と貧弱な子が生まれることを突きとめた。まさしくメンデルの法則だ。愛知県養鶏研究所によると「現代遺伝学でも当時の名古屋コーチンに行き着くのは至難の業」だそうだ。

有名ブランドに育成

1895年、ある日鶏舎を見回っていた壮平は突然クラクラと倒れ、帰らぬ人となった。享年48。名古屋コーチンにささげた一生だった。正秀は1921年まだ生き続け、名古屋コーチンを有数のブランドに育ちあげた。その後の隆盛はいうまでもない。
ともあれ、難しい話はここまで。詳細は「名古屋コーチン作出物語」にまとめた。名古屋コーチンの良さはまずは食べてみないと分からない。私も前はどんな肉でもよかったが、今では名古屋コーチンでないとニワトリを食べた気がしない。みなさんもぜひ一度、たぐいまれなる美味に「うみゃー」とうなっていただきたい。

(いりたに・てつお=小牧市適応教室指導員)